恕の心を持ち続けましょう
平成25年1月27日
宇土市立走潟小学校


 おはようございます。と言うより、お寒うございますと言った方がぴったりのように今朝は冷え込みました。寒いですね。経済状態などで「底を打つ」という言葉がありますが、寒さも今が一番寒いときではないでしょうか。とても寒いですが、庭の草木を見ますと、一つひとつの草木には小さな芽が出始めています。我が家の梅の木のつぼみもふくらんできました。春を待つ息吹を感じます。草木のたくましさを感じます。命のたくましさを感じます。私たち人間も力強い命を持っています。「本日の授業参観では、子どもたちは性教育の一環として命の学習をしています」と校長先生からお聞きしました。授業や毎日の生活の中で、命の力強さと尊さを感じること、これこそ人権教育だと思います。
 私は先ほどから驚きっぱなしです。皆さん、私の顔を食い入るように見て聴いていらっしゃいます。先ほどのPTA会長さんの話や校長先生の話を一語も聞き漏らすまいとお二人が話されるのを目を光らせて一心に聴いていらっしゃいました。こんなに真剣に聴いていただく皆さんと一緒に人権問題を考えることができることを大変幸せに思います。
 少し自己紹介をします。先ほど、「なかがわありとし」さんと紹介していただきました。「ありとし」と呼ばれることはほとんどありません。「ゆき」さんまたは「ゆうき」さんと呼ばれます。
 私が牛深小学校に赴任した時のことです。校長先生に、「中川です。よろしくお願いします。」とご挨拶に行くと、校長先生は驚いたような表情で私を見て、「あたは、ほんなこて中川先生な。わしぁ、『今度来る二人の先生は女の先生、そるも名前からして美人の先生ばい』て職員には紹介しとったのに。もう一人の先生は名前のとおり美人だったばってん、あたは男の先生たい。ほんなこて中川先生な。」と本当に困った顔でおっしゃいました。校長先生も、私の名前を「ゆき」か「ゆうき」と読まれたのだろうと思います。このように女性と間違われる名前ですが、私はこの名前が大好きです。こんなすばらしい名前を付けてくれた父を敬愛しています。「有」は、上に「保」を付けると保有するという熟語ができるでしょう。つまり、「有」には、「保つ」という意味があります。私の父は「有」と書いて「たもつ」と読みました。「紀」は、「21世紀」の「紀」です。つまり、「年」という意味があります。このことから、「年を重ねるにつれ年相応の人間になれ」という思いから名付けてくれた名前です。父は、私につけた名前への思いをこんな風によく話してくれていました。
 現在69歳です。69歳の今でも小学校や中学校時代の幼なじみからは、「ありちゃん」の愛称で呼ばれています。ところが、私は小さい頃、上級生や中学生から「おっ、向こうからアリの来よる。アリば踏みつぶそう。」と言ってアリを踏みつぶす仕草をしてからかわれました。いじめられました。私はその度に、「俺はアリじゃなか。ありとし」と言って体当たりして抗議していました。
 皆さんも、お子さんが誕生した時、いろんな思いを込めてお子さんに名前を付けられたでしょう。その親の思いを、人生の節目節目に、たとえば、誕生日だったり、進級や進学時などにお子さんに語ってください。小学校2年生くらいまでのお子さんだったら、膝の上にだっこして、背に手を回して、目を見て、お子さん誕生の時の感動を思い起こしながら名前に込めた親の思いを語ってください。背に手を回してには意味があります。後で触れます。高学年や中学生でしたら、手を取り、目を見つめて語ってください。きっとお子さんは、自分の名前を好きになり、誇りに思い、「素晴らしい名前を付けてくれてありがとう」とご両親を敬愛すると思います。このことが、自分を好きになることにつながります。自分を価値ある人間と思うようになります。これが自尊感情を育んでいくのです。
 この自尊感情は、人権尊重社会とも生涯学習社会ともいわれています21世紀に生きる私たちにとって、もっとも大事な感情だと私は思っています。
 それは、人権を考える上では自分を大切にできなければ他人も大切にできないからです。また、21世紀は変化の激しい時代とも言われています。昭和の時代までのように「欧米諸国に追いつき、追い越せ」の時は、先進国というモデルがありそのモデルをまねていけばよかったのですが、今はまねるモデルがありません。自分の力で自分の進む方向を追い求めねばなりません。それは、自ら進んで課題を見つけ自ら学ぶことです。「できるようになりたい、分かるようになりたい」という意欲は、「自分が大好き、自分を大事にしたい」との自尊感情が根底に座っていなければ起きません。
 このような意味から、「今を生きる自信と、明日につながる希望」を育むのが自尊感情といわれているのです。皆さんは、これまでのいろんな研修会で自尊感情という言葉はお聞きと思います。人は誰にでも欠点があり失敗もします。そんなことを全部ひっくるめて「この私でOK」と思える感覚です。自分のことが好き、自分にも意味がある、あなたも好き、私も大事であなたも大事、そう思える感覚が自尊感情です。
 自尊感情が高くなると子どもの学力が伸びてきます。先ほど紹介がありましたように、私は今、益城町の放課後子供教室で町の公民館講座受講生の方たちと、子どもたちにそろばんを教えています。そろばんを習った経験のある方はおわかりと思いますが、そろばんの学習で第1の関門は、たとえば「4+3」の計算です。この計算の答えは、全員「7」と分かっています。しかし、これをそろばんの5珠と1珠を使って計算するのが難しいのです。計算方法は、1珠は4上がっています。そこで、5珠を下ろします。つまり5を入れるのです。3を入れるのに5入れますので2入れ過ぎになりますね。そこで入れすぎた2を取るのが、4上がっている1珠から2降ろすのです。それで7となります。この5珠を使うことがなかなかできなくて、説明を聞いては自分でやってみる。自分でやってみて、やっぱり分からないのでもう一度聞きに来る。「先っき教えたでしょうが!」とわざと叱ります。それでも「分からないので教えてください。」と聞きに来ます。そして、また自分でやってみます。やっぱりできなくて、また聞きに来ます。やはり叱ります。終いには泣きながら「分からないので教えてください。」と言います。こうして、関門を突破する子がいます。かと思うと、2〜3回やってみて「難しか、分からん。」と言ってそろばん学習をやめる子がいます。私は、この2つの違いは学力の差ではないと思います。自尊感情の差です。「できるようになりたい」「分かるようになりたい」の意識の違いだと思います。この差が学習意欲の差となって表れます。意欲があれば進んで学習に取り組みます。学力が高まるのは当然のことです。このように考えると自尊感情と学力には相関関係があります。
 自尊感情が高いときには、生きることをを楽しんでいることが多いので、あらゆる場面で前向きになります。何でもやってみようという気持ちになります。ところが自尊感情が低いときには、否定的で消極的で何にもやりたくない傾向が強くなります。これは、大人にも子どもにも言えることです。「めんどくさい。やったって失敗する。でけん。」こういう時は、自尊感情が低くなっているのです。
 また、自尊感情が高いときには差別や偏見が少ないということが分かっております。
 この自尊感情を支える4つの感覚があります。それは、「包み込まれ感覚」、「社交性感覚」、「自己効力感」、そして「自己受容感覚」です。
 「包み込まれ感覚」とは、自分の身近にいる人が自分を温かく包み込んでくれているとか、自分を愛してくれているなど、だれかが自分の気持ちをわかってくれているという気持ちのことです。乳幼児期に子どもが泣いたり笑ったりすると、「おむつが濡れていたの?」とか「いっぱいお乳を飲んでおなかいっぱいになったね」などと親や周りの人がそれに反応するでしょう。これが子どもに、自分は愛されている、受け入れられているという包み込まれ感覚、安心感を与えているのです。
 昨年4月、次男夫婦に赤ちゃんが生まれました。今、9ヶ月です。じじバカですがそれは可愛いです。ハイハイしたり、つかまり立ちしたり、おもちゃを手にとっては口に持っていったり、笑ったり、べそをかいたり、大声で泣いたり。そのたびに両親は、「じょうず、じょうず」、「おじいちゃん、おばあちゃんがいて楽しいね」、「おしりが気持ち悪かったね」、「このおもちゃが大好きだもんね」など声をかけています。このような親の反応が、小さな赤ちゃんに包み込まれ感覚を持たせ、安心感を持たせるのですね。私が抱こうとすると、私の顔をじっと見つめて、大声で泣きだします。母親が抱きかかえると、今まで泣いていたのが嘘のようにぴたりと泣き止み、私を微笑みながら見つめます。生後、6ヶ月くらいから人見知りが始まりますが、自分の身近にいて包み込んでくれている人は、自分の安心・安全を託すことができる人。あまり接触していない人は、自分の安心・安全を託すのが不安な人です。だから怖くて人見知りするのでしょう。この包み込まれ感覚が自尊感情の大部分を占めています。
 「社交性感覚」とは、友達や周りの人が言ったことを自分はよく分かる、自分の言ったことは友達や周りの人がよく分かってくれる、という周りの人との心の通じ合い感覚です。周りの人とつながり感を実感していることです。絆を実感し、互いを信頼し合うことです。
 「自己効力感」とは、何かをやりはじめたら最後までやり通すことができる、自分にはできるという気持ちのことです。自信をもつことができることです。
 「自己受容感覚」とは、自分が好きだとか、自分の性格が好きという気持ち、先ほど言いました自分のことが丸ごと好きという感覚です。
これまで見てきました自尊感情は、自分だけの独りよがりでは育まれません。周りの人の肯定的な眼差しや言葉かけなど周りの人との関わりの中で育まれます。学校・家庭・地域社会で自尊感情を育む環境を作って欲しいと思います。
 ところで、皆さんはご自分の自尊感情は高い方でしょうか?物事がうまくいっているときは、自尊感情は高くなりやすいです。物事がうまくいかなかったり、失敗が続いたり、辛いことが起こったりするときは低くなりやすいです。
 人間ドックに行くと、事前の質問紙に「最近充実感を味わったことがありますか?」とか「自分はだめなところが多いと思うことがありますか?」など心の状態を質問しているのがあるでしょう?自尊感情が低い状態が続けば、大人だったら鬱病になりやすいと言われています。ですから人間ドックなどでは事前に心の状態を質問するのですね。子どもは引きこもりや不登校に陥らないとも限りません。身近に自尊感情が低い状態の人がいる時は、温かい言葉かけをしてください。
 この自尊感情を育むには、「体の栄養」と「心の栄養」が必要です。体の栄養とは、「食べる」「寝る」「動く」です。食べるは、お母さんが心を込めて作った食事をできるだけ家族みんなそろって夜の7時前後に「ご飯がおいしいね。」とか「今日はどんなことが楽しかった?」などと会話しながら食べることです。寝るは、夜ぐっすり寝ることです。夜ぐっすり寝ると脳がいきいき活性化して働くのです。夜は10時頃までに寝て、朝は6時から6時半頃までには起きる、つまり、早寝早起きです。そして、動くとは、大人は仕事をします。ジョギングをしたりウォーキングをしたりしてよく動くことです。子どもはよく遊ぶことです。遊びといってもテレビゲームなどのように室内での遊びではなく、外で体を動かして遊ぶことです。
 次は、「心の栄養」です。先ほど言いました自尊感情を支える4つの感覚と重なりますが、まず、安心と安全です。家では怒られたり叩かれたりすることがない、ドメスティックバイオレンスや虐待がないことです。学校ではいじめがない、体罰がないことです。こんな家庭や学校では、子どもたちは安心して安全に過ごすことができます。居場所があります。ですから学校では、校長先生をはじめすべての先生がいじめ撲滅、体罰禁止を常に念頭に置きながら教育活動を展開されているのです。
 次は、人とのつながり・関わりの中で、自分が誰かに愛されている、大切にされていると思えること、自分はひとりぼっちじゃない、関心をもってくれる人がいると思えること、辛いとき悲しいとき、「何かあったの?」と温かく聴いてくれる人がいる、自分のことを褒めてくれる人がいる、認めてくれる人がいる、信じてくれる人がいる、感謝してくれる人がいる、あるがままのあなたでOKと受け入れてくれる人がいる、このようなことを実感できること。これが心の栄養です。
 熊本県の学校では、「認め、ほめ、励まし、伸ばす」を合い言葉に学校教育が展開されています。これを熊本県教育行動指標というそうですが、これは、学校だけの専売特許ではありません。家庭でも地域でも子どもたちの行動を、大いに認め、褒め、励まし、伸ばしてください。また、熊本の心「助け合い 励まし合い 志高く」も参考にして下さい。
 子どもたちを認め、褒めるのはそう簡単ではありません。子どもの頑張りや伸びはいつも見ていないと分かりませんから。そこで、私が家庭教育講演会でよく提案しているのは、「手を離して、目は離さない」です。ところが、意外とこれと全く違うことが多いのです。「目を離して、手は話さない」場合が案外多いようです。
 お子さんが金曜日、上履きを持って帰りますね。洗って清潔にするために。
 お尋ねします。この上履き、お子さんが洗っているところ手を挙げてみてください。(20人程度挙手)
お母さんが洗っているところ?(多数挙手)
 低学年だったら、無理かもしれませんができるだけお子さんに洗わせてください。少しくらい汚れが落ちていなくてもいいですよ。においが残っていてもいいですよ。校長先生、靴底がきれいであればそれでいいでしょう?(「はい」の返事をされる)
 子どもは、そこから学習します。子どもの学習は、自分で体験することから始まります。
 昭和60年代から平成4・5年まで、県社会教育課でフロンティアアドベンチャーと銘打って、小学4年生から高校生までを対象にした10泊11日のキャンプをしていました。旧久木野村でキャンプをしたときのことです。毎日のように雨が降っていました。ある朝、大雨が降り、子どもたちの竈は水に浸かりご飯を炊くことができませんでした。私たちリーダーの竈は水浸しにならずにご飯を炊くことができました。私たちリーダーが朝ご飯を食べていると、子どもたちが「おなか減ったー」と言いながら周りに集まってきます。中には指をくわえてよだれを流さんばかりにしている子もいます。「かわいそうだ。少し分けてやろうか。」と言うと、「人間一食くらい食べなくても死にはしません。分け与えないようにしましょう。」とキャンプ協会の人は言います。これがよかったのです。子どもたちは腹がへってたまらないものですから、自分たちはご飯が炊けなかったのになぜリーダーたちは炊けたのだろうと必死にそのわけを探しました。そして発見したのです。リーダーの竈の周りには、排水溝が掘ってあり、ビニルシートがかぶせてあることを。それ以来、全員が雨の朝もご飯を炊くことができました。これが生きる力だと私は思います。
 話がそれてしまいましたが、子どもたちは、体験を通して、人との関わりの中で優しさや強さに触れながら自尊感情を育んでいきます。数年前、AC公共広告機構のテレビCMで「命は大切だ。命を大切に。そんなこと何千万何万回言われるより、あなたが大切だ。誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける。」というのがありました。「あなたが大切だ。誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける」この言葉はこれまで話しましたことをずばり言い表していますね。
 自尊感情とは人の感情・感覚のことですが、私は集団にも集団の自尊感情が必要と思っています。資料に付けています「人権感覚持つ子ら育てたい」は、孫娘が体育の授業を前に持っていた不安・憂鬱について考え、投稿したものです。孫娘は未熟児で生まれ、元気に育つだろうかと心配しましたが本人の生命力、両親の愛情、病院の先生方の手厚い看護で元気に育ちました。が、体位も体力も当該学年の子どもより落ちています。その孫娘が4年生の時のことです。読んでみます。


                  人権感覚持つ子ら育てたい

 小学4年生の孫娘に電話すると、いつものような元気がない。訳を聞くと、「明日体育の授業でリレーがある。去年、リレーの時、私が走るのが遅いので私の組はビリだった。みんなからとても嫌なことを言われた。明日、またリレーがある。嫌だな」と言う。
 妻は、「リレーであなたの走りが遅くて負けたのなら、みんなにごめんなさいと言いなさい。それでも、みんなが文句を言うなら先生に相談しなさい。泣いたり怒ったりしては駄目」とアドバイスした。孫娘は、「分かった」と言った。
 周りから「おまえのせいで負けた」と責められると、「自分はダメな人間」と思いこみ、自信喪失になる。不登校や引きこもりになりかねない。
 孫の憂鬱は、人権感覚を育てることに直結する問題だと思う。人は自分の短所や欠点を他人に話すことには抵抗がある。しかし、自分のことを理解してもらうには自分のありのままの姿をきちんと話さなければならない。このような時、所属する集団に、互いの違いを認め、共に生きる感性や人権感覚が育っていれば素直に話すことができる。子どもの生活場面に起きる具体的な事例をもとに、豊かな人権感覚を持った子ども達をはぐくんでいただきたいと願う。

 私は自尊感情が、共に生きる感性や豊かな人権感覚を育んでいくと思っています。共に生きようとする感性が集団としての自尊感情を生むと思っています。「人権感覚とは何か」について岐阜県で人権教育・人権啓発を推し進めていらっしゃる桑原律さんは、著書「心しなかやか『人権感覚』」で「人権感覚とは、具体的な場面に遭遇したとき、とっさに迷うことなく人間として当然あるべきあり方を行動として示すことのできる感性を指しています。それは、そうせずにはいられない直感的情動に基づく行動であり、正義感と言っても理屈の上ではなく、ごく自然に湧き上がってくる感性の行動化にほかなりません。」と述べています。また、「人権感覚って何ですか」という詩を作っています。資料に付けています「人権感覚って何ですか」を一緒に読んでみたいと思います。しばらく黙読して下さい。
 では一緒に読みたいと思います。「私は読みたくない」と思われる方は、どうぞそのままでお聞き下さい。強制はしませんから。では、どうぞ。


     「人権感覚」って何ですか   
                                桑原 律

  「人権感覚」って何ですか
  それは ケガをして
  苦しんでいる人があれば
  そのまますどおりしないで
  「だいじょうぶですか」と
  助け励ます心のこと

  「人権感覚」って何ですか
  それは 悲しみに
  うち沈んでいる人があれば
  見て見ぬふりをしないで
  「いっしょに考えましょう」と
  共に語らう心のこと

  「人権感覚」って何ですか
  それは 偏見と差別に
  思い悩んでいる人があれば
  わが事のように感じて
  「そんなことは許せない」と
  自ら進んで行動すること

  「人権感覚」って何ですか
  それは
  すどおりしない心
  見て見ぬふりをしない心
  他者の苦悩をわが苦悩として
  人権尊重のために行動する心のこと
  
            (ヒューマンシンフォニー 光は風の中により)

 この人権感覚を育成するには、他者の心の痛みや感情を共感的に受け容れる感性が必要だと思います。特に、「傷つけられた人」や「きつい思いをしている人」の心の痛みを想像する力が必要だと思います。このことは、人権教育指導法の在り方についての第3次答申に明記されています。残念ながら今の子どもたちにはこの力が不足しているように思えてなりません。きつい思いをしている人の心の痛みを想像する力があれば「いじめ」など起きないと思います。さらに、自分の考えや気持ちを適切に表現し、伝え合い、わかり合うためのコミュニケーション力が必要です。そして、問題を解決しようとする実践力を育てることです。
 人権を学ぶとは、「人と人とのつながり、優しさを学ぶこと」と聞いたことがあります。資料の「一度きりのお子様ランチ」を読んでみます。


                       一度きりのお子様ランチ

 ある日、若い夫婦が二人でレストランに入りました。
 店員はその夫婦を二人がけのテーブルに案内し、メニューを渡しました。
 「Aセット一つと、Bセット一つ。」
 店員が注文を聞きその場を離れようとしたその時、夫婦はしばし顔を見合わせ、「それとお子様ランチを一つ頂けますか?」と言いました。
 店員は驚きました。なぜなら、そのレストランの規則で、お子様ランチを提供できるのは小学生までと決まっているからです。
 店員は、「お客様、誠に申し訳ございませんが、お子様ランチは小学生のお子様までと決まっておりますので、ご注文はいただけないのですが...」と丁重に断りました。
 すると、その夫婦はとても悲しそうな顔をしたので、店員は事情を聞いてみました。
 「実は…」と女性が話し始めました。
 「今日は、天国へ旅立った私たちの娘の誕生日なんです。私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることも出来ませんでした。娘が私のおなかの中にいる時に『三人でこのレストランでお子様ランチを食べようね』って話していたんですが、それも果たせませんでした。子どもを亡くしてから、しばらくは何もする気力もなく、最近やっと落ち着いて、亡き娘にここの遊園地を見せて、三人で食事をしようと思ったものですから…」
 店員は話を聞き終えた後、少し何かを考えていた様子でしたが「かしこまりました。」と答えました。
 そして、その夫婦を二人掛けのテーブルから、四人掛けの広いテーブルに案内しました。さらに、「お子様はこちらに」と、夫婦の間に子ども用のイスを用意しました。
 しばらくして、「お客様、大変お待たせいたしました。ご注文のお子様ランチをお持ちいたしました。では、ゆっくりと食事をお楽しみください。」
 店員は笑顔でそう言ってその場を去りました。

 この夫婦から後日届いた感謝の手紙にはこう書かれていました。
 「お子様ランチを食べながら、涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているように、家族の団らんを味わいました。こんな体験をさせて頂くとは、夢にも思っていませんでした。もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」

 いかがですか?
 店員さんがとった態度をどう思いますか?一度は断りながらも、事情を聞いて2人がけのテーブルから4人がけのテーブルに案内し、しかも2人の間に子ども用のイスまで用意してお子様ランチを出し、「ゆっくりと食事をお楽しみ下さい」と声を掛けています。
 これは東京ディズニーランド内のレストランでのできごとです。ディズニーランドはアメリカのそれをまねて千葉県浦安市に造ったものですね。ディズニーランドの生みの親、ウォルト・ディズニーは、「人々に、夢と希望と生きる喜びを与えるためにディズニーランドを造った」とものの本で読んだことがあります。店員さんは、まさに夫婦に「夢と希望と生きる喜びを与える」行為をしました。店員さんの優しさからでた行為ですね。夫婦から届いた手紙「もう、涙を拭いて、生きていきます。また来年も再来年も、娘を連れてこの遊園地に来ます。そしてきっと、この子の妹か弟かを連れて行きます。」で分かりますね。
 私たちの心の中にある差別意識について考えてみましょう。
 私たちには、ある情報から「○○=○○」という固定観念を持ってしまうことがありはしないでしょうか。人の噂や昔からの言い伝えなど周りの一部の情報に影響されて、根拠のない理由や思い込みで判断し、差別や偏見につながる考えや行動をしていることはないでしょうか。
 私は、同和問題にしても、水俣病問題にしても、ハンセン病問題にしても、この「○○=○○」という思い込みから今なお差別意識が払拭されないような気がしてなりません。私の心の中にもこの思い込みや偏見がたくさんあります。それらを一つ一つ取り除く努力をしています。皆さんの心の中にはどうでしょうか。
 お尋ねします。みなさんはカラスについてプラスイメージを持っておられますか?マイナスイメージを持っておられますか?
 プラスイメージをお持ちの方?(挙手無し)
 マイナスイメージをお持ちの方?(挙手多数)
 マイナスイメージをお持ちの方が多いようですね。私は小さい頃、田んぼにカラスが舞い降りて、えさを突いているところを眼にすると、「今日はカラスの多か。縁起が悪かばい」などと言っていました。まさに「カラス=不吉」と思っていたのです。人はなぜ、カラスについてマイナスイメージを持っているのでしょうか?それは「黒=不吉」という思い込みがあるからではないでしょうか。
 皆さんは「七つの子」という童謡を小さい頃歌ったことがあおりでしょう。歌詞を読んでみます。
 「カラス なぜ啼くの カラスは山に 可愛い七つの 子があるからよ 可愛い 可愛いと カラスは啼くの 可愛い 可愛いと 啼くんだよ 山の古巣に いって見て御覧 丸い眼をした いい子だよ」
 この歌は、大正10年野口雨情が作詞したものです。雨情はなぜ詩の題材として、カラスという鳥を選んだのでしょうか。黒い鳥であるカラスが鳴くと、不吉な事が起きるという古来からの迷信があり、そのためカラスは「不吉な鳥」として嫌われてきました。そのカラスの鳴き声を、子煩悩な親鳥の呼び声として表現し、黒いカラスは不吉な鳥と決めつけることのおかしさを人々に訴えたのだと思います。
 先日、県立盲学校の生徒さん達にこの話をしました。生徒さん達は、顔の表情からカラスを不吉な鳥と決めつけることのおかしさに気づいているようでした。「このおかしさを皆に伝えるためにも一緒に声に出して七つの子を歌いましょうか」と語りかけると、「歌いましょう」と返ってきました。みんなで声に出して歌いました。校長先生は、「人権研修で七つの子の歌声が聞こえてきたので何だろうと思いましたがそう言うことだったのですか」とおっしゃいました。本日は時間がありませんので家に帰ってから、このことを思い出しながら歌ってみて下さい。
 皆さん、レジュメのあいているところに魚の絵を描いてみてください。(各自魚の絵を描く)
 (一人に描いてもらう)○○さん、とても素晴らしい魚の絵を描いていただきありがとうございました。
 お尋ねします。○○さんと同じように左向きの魚を描かれた方、手を挙げてください。(ほとんどが挙手)
 右向きの魚を描かれた方?(1人挙手「筆記具が手元になくて描かなかったけど、描くなら右向きを描く」との反応)
 ありがとうございます。
 皆さん、考えてください。私は「魚の絵を描いてください」と言いました。「左向きの魚を描いてください」とも「右向きはだめですよ」とも言いませんでした。しかし、ほとんどの方が左向きの魚を描かれました。どうしてこんなことが起きるのでしょう?
 (「魚料理では左向きに出す」との声が上がる)そうですよね。料理では、魚は左向きに出します。5月の鯉のぼりの絵や写真はどちらを向いていますか?(「左」の声あり)
 そうですよね。ほとんどが左を向いています。図書館にある魚の図鑑に掲載されている絵や写真の7割から8割は左向きです。私たちは、左を向いている魚の絵や写真、料理の魚を見て、空気を吸うが如く無意識のうちに「魚の絵は左向き」を学習しているのです。そして、「魚は左向き」を刷り込んでいるのですね。ですから、「右向きの魚を描く」とおっしゃった方ははご自分の思いを持っておられてすごいと思います。
 この刷り込みが、思い込みとなり、これにマイナスイメージが加わると偏見となり、差別意識が生まれるのです。
 2年前、ウズベキスタンへ旅行しました。中央アジアの国、ウズベキスタンは、緑あり、砂漠あり、歴史遺産あり、暮らしている人々の優しさありとそれは素晴らしい国でした。特に、紺碧の空に真っ青に輝くモスクはとても印象に残りました。旅の最終日、バスの中で日本語ガイドのマリカさんが私たちにこう尋ねました。「みなさんの中で、ウズベキスタンに行くと言ったら『あんな危ない国には行かない方がいいよ』と知り合いの人などから言われた人はいませんか?ウズベキスタンにやってきてどうでしたか?危険な国と思いますか?」と。
 実は、知人どころか私自身が「ウズベキスタン 青の都サマルカンドを旅するツアーに参加しよう」という妻に「あすこは危なか国だけん行かんがよか」と言っていたのです。ウズベキスタンの隣国はアフガニスタンです。アフガニスタンはイスラム過激派のテロ行為があっていました。外務省が出している外国の治安情報ではアフガニスタンの国境周辺は「渡航の是非を検討して下さい」です。それ以外も「十分注意して下さい」です。でも、妻は「行きたい」と言います。それで、治安について旅行会社に問い合わせました。「危険な箇所には立ち寄りませんので問題ありません」という返事です。外務省にも問い合わせました。「個人旅行ですか? ツアーですか?」と問われたので「ツアーです」と答えると、個人旅行の人も含めて治安情報を出しています。旅行会社のツアーだったら心配ないでしょう」とのことでした。
 行ってびっくりでした。私たちが訪問した、タシュケント、ブハラ、サマルカンドの都市は穏やかで、人々はとても明るく、治安の心配などみじんもないところでした。ある一つの情報をそのまま信じて「○○は○○だ」と思い込むことのおかしさを実感しました。ある一つの情報でウズベキスタンは危険な国と思い込んでいた自分を恥じました。
 また、マリカさんはウズベキスタンの大学で日本語を学び、法政大学に留学して日本語を学んだと言いました。そして、日本の旅行を楽しみ、東京をはじめ鎌倉や奈良、大阪を訪れたが京都が一番印象に残っていると話しました。金閣寺や銀閣寺はとてもきれいだったが、最も心を動かされたのは竜安寺の石庭だったと言いました。竜安寺の石庭を見つめていると、心が癒されたと言いました。この竜安寺の石庭を造ったのは、被差別部落の人だと言われています。銀閣寺も被差別部落の人の手によるものだと言われています。室町時代、能を創りあげた観阿弥、世阿弥も被差別部落の人だと言われています。江戸時代、前野良沢、杉田玄白と日本で最初の解剖をした人も被差別部落の人だと言われています。また、死んだ牛馬の処理を通して日本の皮革産業を起こしたのも被差別部落の人々です。このように被差別部落の人々が日本の文化や産業の発展に果たした功績は大きいのです。
 黒いカラスは不吉とか、魚は左向きと固定的に捉えることでは偏見や差別意識は生まれないでしょうが、同和問題も水俣病問題も、ハンセン病問題も「○○=○○」と思い込んでいることが、今なお差別や偏見が無くならない要因の一つだと思います。「○○=○○」と固定的に考えることではなく、「そうかな?」と一度立ち止まって考えることが大切だと思います。
 国語辞典によると、差別とは、「差をつけて取り扱うこと」「わけへだて」とあります。差別とは、本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益を被ることです。差別とは、違いによって人間の優劣まで付けることです。出身地、職業、学歴、性別、家柄、民族などによって、上下の値打ちをつけ、その人や団体の自由や権利を無視、侵害するなど不当性、不利益性を被る関係が生じることです。差別が起きるのは、人々の心の内にある予断と偏見に起因するといわれています。

AB、CD 2本の線があります。どちらが長いと思いますか?
 自分で結論づけられない方は近くの人と話し合ってもいいですよ。これは中学校数学の図形の問題とは違いますので、ゆっくり考えてみてください。)
 (各自、隣と話し合ったり、紙を折って重ね合わせたり、鉛筆などで測ったりしている)
 皆さんすごいですね。ただ眺めて考えているのではなく、折りまげて重ね合わせたり、鉛筆などで長さを比べたりしていらっしゃいます。
 ABが長いと思う人?(多数挙手)
 CDが長いと思う人?(挙手無し)
 同じ長さと思う人?(数名挙手)
 斜の線が余計な情報となって、私たちの判断を惑わせますね。言い換えますと、「余計な情報」が「事実」を歪めたとも言えます。
 「ABが長いと思うが、多分長さは同じだろう」、「見た感じ、ABが長く見えるからABが長いだろう」と結論づけるのは、十分な事実確認をすることなく、勝手に判断してしまう予断です。斜めの線という余計な情報に惑わされて、ABが長く見えるのは、偏見になろうかと思います。
 実際に物差しで測ると、この図はABの方がわずかに長いのです。1mmくらいですかね。でも、ABがとても長いように見えるでしょう?(頷きが多い)
 この問題は目の錯覚の問題です。「2本とも同じ長さだろう」と思うのではなく、実際に定規を使うなどして2本の線の長さを比べることが、予断や偏見のない考え方、科学的なものの見方ではないでしょうか。

 日常の生活の中で、今までの経験や知識により物事を判断することは必要ですが、噂話や迷信にとらわれることなく、物事を冷静に科学的に事実を確認して、正確な判断力を養うことは大切なことです。
 まとめますと、予断とは事実を確かめないで自分のもつ過去の経験、知識、記憶などの範囲で判断することです。偏見とは、何の合理的な根拠もないのに、「○○=○○」と非好意的で否定的な態度や考え方です。何事も「正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、行動する」ことが大事であると思います。
 このことを、中学生が人権作文で述べています。毎年、法務省主催で全国中学生人権作文コンテストが行われています。そこに示していますものは、平成24年度第32回全国中学生人権作文コンテストで内閣総理大臣賞を受賞した岡山県赤磐市立桜が丘中学校3年森永翔太君の「一滴の涙 ある夏の出来事」です。
 私が読みます。よかったら一緒に読んでください。


平成24年度第32回全国中学生人権作文コンテスト 内閣総理大臣賞

                「一滴の涙」ある夏の出来事

                                                 岡山県赤磐市立桜が丘中学校3年 森永翔太

 家族旅行中の出来事。一軒の家が目に飛び込んできた。その家は窓が割れ、建物はボロボロ。そして一番の衝撃は、「人殺し、出て行け、化け物」などの卑劣な言葉。塀に沢山のビラ。その時下を向いたおばあさんと若い女性が周りを見渡しビラを外し、逃げる様に家に入って行った。「何この家。何で?」と聞いた。「息子が人殺しをした。当たり前だ。家族も同様な罪を受けるべき」と運転手が答えた。疑問に思ったがそのまま旅館に行った。
 温泉に入り僕は、こんな幸せな時はあのおばあさん達無いだろうなと、ふとそんなことを思い、あの二人の悲しい顔が脳裏をかすめた。
 部屋に戻り皆に聞いてみた。「家族まで同じ罪を受けないと駄目?」反対に質問された。「翔太はどう思う?」僕の家ではまず僕自身の考えを述べて、それについて皆で話し合うのだ。すぐに返答出来なかった。すると祖父が「お前はもう十四歳。善悪は分かるはず。旅行に来てまで暗い話だがこれは勉学よりも大切な事。よく考えて答えてみろ」と言った。僕は五分〜十分考え答えた。「犯罪者の人の家族があんな思いをするのは可哀想だと思う。犯罪者本人だけではなく、家族まで。あの卑劣なビラはひどい。窓も割るなんて」そう言い下を向いた。「そうだな。翔太の言う通りかもしれない。世の中はこういうものだ。十人居たら十人の考えがあるが、卑劣だな。」と祖父は言った。「親のしつけが悪いとか、兄弟姉妹が支えていないなどと運転手さんが言ったけど、僕は間違っていると思う」と言うと、「何が間違っていると思う?」と聞かれた。答えようとした時、食事の時間になった。そして祖父が「まだ何日か滞在する。よく考えなさい。」と言った。夕食を食べながらでも僕は心からノリノリになれなかった…あの白髪頭の痩せこけた青白いおばあさんの顔が頭の中から消えなかったからだ。「あぁ僕はこんな幸せな時間をあじわっていいのか…。」
 次の日は雨が降っていた。そしてあの家の前をまた通った。濡れながら、また庭を見渡しているおばあさんがいた。その瞬間おばあさんが倒れた!僕は「車止めて!」と叫んだ。そして祖父と一緒におばあさんまで走った。「大丈夫?」と言うと、おばあさんが細い声で答えた。「大丈夫です。」「はい、どうぞ」と言い持っていたハンカチを渡した。そうすると、「ありがとうございます。ありがとうございます。」と言ってくれた。雨ではなくその顔には一滴の涙が流れていた。その時、運転手が来て「行きましょう。相手にしたら駄目です。」と言うので僕は濡れながら大声で叫んだ!「関係ない!大人なのに常識がない!おばあさんには関係ない。困っている人が居れば僕は助ける。あなたは間違っている。加害者の親だけど、今は被害者だ!」と言った。僕は年上の運転手さんに偉そうに言ってしまったので、恐る恐る祖父の顔を見た。そうすると祖父は僕の頭を大きな手で撫でてくれた。そして祖父は「運転はもういい。金はこれで足りるだろ。非情な人間の運転は信用ならん。孫の言う通り。ここから自分で行ける。わしら大人が次の世代を担ってくれる子どもの手本にならんとあかん。あんたは駄目だ!」と言った。運転手さんは下を向いて黙ってそこから立ち去った。
 急いでおばあさんの方へ皆で行った。娘さんが出てきて僕たちの顔を見て驚いた様子だった。おばあさんが「事件以来優しさをもらったのは初めて。死んでも悔いはありません。」と言った。それを聞き祖父が「あなた達は何も悪くない。だが被害者の事そしてその被害者にも家族が居た事を決して忘れずに生きましょう。死んではいけない。息子のした事に目を背けず、しっかりと生きなさい。そして妹さん、あなたは全く関係ない。しかし兄が犯罪をすると全てを失うでしょう。しかし、人生は長い。下を向かずお天とさんを顔いっぱいにあびなさい。」と笑顔で言うと、二人共大声で泣き出し、そして少し微笑んだ。
 旅館に戻った。「加害者の家族は最後には被害者になるのかもしれないな。翔太、今回の事を一生忘れず生きなさい。自分が悪い事をすると大切な家族が辛いことになる。そして相手にも大切な家族がいる。今の世の中は人権がない。あると言いながら今回の様な場合はない。テレビなどの報道の仕方が悪い。犯罪は駄目だ。だから絶対に犯罪者にもなるな、そして差別をするな。分かったな。」と言われた。ぼくは、「絶対にしない!そして差別もしない!周りの人の言葉だけを信じるのではなくこの目で必ず確かめるよ。」と言うと家族皆が「翔太は大人より最高だね。子供の綺麗な心を大人になっても忘れなければこの世は最高になるはずだね。」と言ってくれた。祖父は僕の顔をもう一度撫でてくれた。
 今あの家族はどうだろう…一滴の涙よりも「二人の間だけの笑顔を」取り戻して欲しい。

 いかがですか。
 おじいさんから「自分が悪い事をすると大切な家族が辛いことになる。そして相手にも大切な家族がいる。今の世の中は人権がない。あると言いながら今回の様な場合はない。テレビなどの報道の仕方が悪い。犯罪は駄目だ。だから絶対に犯罪者にもなるな、そして差別をするな。」と言われた森永君は、「絶対にしない!そして差別もしない!周りの人の言葉だけを信じるのではなくこの目で必ず確かめるよ。」ときっぱり言っています。
 「周りの人の言葉だけを信じるのではなくこの目で必ず確かめる」この言葉が「正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、行動する」ことです。
 論語の言葉を引用して終わりにします。論語は皆さんご存じの通り、孔子の弟子たちが孔子の言葉をまとめたものです。その中に、弟子と孔子とのやり取りがあります。その一つをそこに記しています。御覧下さい。
 子貢問うて曰く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
 子曰わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
 意味は、
 「先生、私が先生の教えを守って生き続ければ人としての道を過たずに生きることができる、そんな一語があれば教えて下さい。」と問うたのに、孔子が答えました。
 「その字は恕。つまり相手の身になって思い・語り・行動することです。自分がして欲しくないことは人にしてはなりません。」と。
 みんなで声に出して読みたいと思います。
 では、一緒に読みましょう。どうぞ。
 子貢問うて曰く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
 子曰わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
 「恕」の心、相手の身になって思い・語り・行動する優しさを持ち続け、みんなが幸せを実感できる人権尊重社会実現のため行動されることを祈念して終わります。
 ご静聴ありがとうございました。